記憶と旅のエッセイ

  • 2017.01.06 Friday
  • 20:08
 僕はカリニナ通りアパートにいる。何をしているのかといえば、本当は小説を書くつもりで、ロシアにやってきたのだが、またいつものごとく詰まってしまい、この文章をパタパタと書いているのであった。
 今日はいい天気で、暖かい。マイナス11度の昼下がりである。パタゴニアの3レイヤーのジャケットを着込んで外を歩いていると、少し汗ばんでくるほどの気温だ。
 冬のロシアのアパートは、小説を書くにはいいところだ。
 温水暖房でホカホカの部屋の中はジーンズにTシャツだ。書くのに飽きたら、レモンティを作ってテラスに出る。テラスは薄いガラス窓一枚で建物の外だから、窓を開けると、今ならマイナス11度まで温度が下がる。湯気の立っているレモンティのマグを左手に、手巻きタバコを右手に持って、外の空気を吸うのである。
 あまりにも寒くて、まともに一本のタバコを吸いきることができないのだが、頭は本当にスッキリする。この極寒テラスでの一服はたまらない。

 ということで、最近、日記みたいな文章ばかりを綴っていましたが、ロシアにも慣れてきたので、ここでは旅のエッセイについて、少し省察しながら、書きたいと思います。
 旅のエッセイはどう書くべきか? 
 我ながら昭和の臭いが漂う題目を書いてしまったが、そんなのはもちろん自由に書けばいいのだ。しかし自由に書く、と言っても、いくつかの書き方に分類されるかもしれない。時間を軸にとって考えてみる。
 アームチェアートラベラーという言葉があったように思うが、現代はiPhoneひとつあれば、世界の何処でも行くことができる。そのデジタル情報を文章化すれば、旅のエッセイが書けなくもない。実際には地勢的にあるいは歴史的に旅する処について、旅に出る前の旅のエッセイである。
 そして旅に出て、リアルタイムにトラベルログのようなものを書くこともできる。細かい数字とか、地名とか、そういうものを書き留めるのと同時に、その新鮮な記憶をどんどん文章化してしまうのだ。
 そして最後に、旅から戻って、いくらかの時間が経過して、旅の記憶を辿りながら文章を書いていく。これが一般的な書き方だと思うが、どれくらいの時間が経過したら書き始めるのか、というのは個人の趣向に従うほかなく、どのような旅のエッセイを書きたいのか、という目的にも関係性が生じるのである。
 すぐに書けば、記憶は新鮮さを保っている。写実的な文章を書きたければ、そうすればいい。 一方かなりの時間が経過して、旅の記憶の大半を失ってしまった。その状況でも旅のエッセイを書くことができる。それは失敗ではない。むしろ記憶を失うことによって、部分が切りとられることによって、芯の強い文章が生まれるかもしれない。
 時間の経った旅のエッセイを書く。
 記憶を掘る、そして描写する。記憶の大半は失われている。しかし残存している記憶には何かの意味があるはずだ。最初はうまく立ち上がらない。しかし記憶の断片に集中していると、失われたはずの記憶が、次第に細かな周辺のディテールまでが、蘇ることがある。なぜその記憶が未だそこにあったのか、その意味は僕にはわからない。
 そして僕は旅のエッセイを書く。想像とは違う記憶の立ち上げ方をする必要がある。それはあくまで旅の記憶を辿るという行為に他ならないのだ。
 しかし旅のエッセイを書くようになると、旅の記憶の仕方、すなわち旅の仕方に影響が出るのではないか、という危惧が発生する。それは本当に危険なことです。
 
 

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